ひとまです
ひとまです。(正式? のハンドルネームは「一間ひふみ」です)
現在は娘J子と二人暮らし。
J子は、出産時酸欠事故 で脳にごく小さな傷が残りましたが障害者まではいたらず。
とはいえ、正社員になれるはずもないのに、彼女のわずかなパートタイムの賃金からさえ、税金はひかれています。しかも、通勤費も収入の総額に繰り入れての課税って…。
まあ、最低ランクですが。(税金をたくさん払えるようになるのが、ひとまのひそかな望みではあるんですが…むり?)
正社員と違って年金も自分で積み立てる国民年金。
国民年金の金額では、老後の生活さえあやういのは、多くの方がご存じのとおり。😢
そんなこんなで、貧乏は相変わらず、世間だけでなく血縁の非情さなど、生きていれば避けられないもろもろもありますが、
先の大戦戦禍で懲りたはずの日本にいるので、とりあえず大きな破綻なく、やっていけるかな、と、いつものように希望的観測を。
でも、その点は、ほんとうに幸運だとおもっています。
難民の方たちの悲惨さを見聞きするたび、
本や古いニュース動画でしか知らないけれど、1945年の終戦時。
追い詰められてとはいえ、世界大戦の導火線にみずから火をつけた日本の、敗戦による終戦のみじめさ。
それ以前、勝利を信じる日本人が多かった開戦直後でさえ、戦地に送り込まれたいっぱんの日本人兵のうち、戦争にひそかにはんたいだった皆さんの苦しさは、平和な時代にいる正視できない
満州はじめ海外から引き揚げてきた日本人の当時の悲惨さをおもいます。
それは、間接的に見聞きするだけでも、耐えがたいほど。
団塊の世代のひとまでさえ、まだ生まれていなかったむかしなので、本で読んだり、体験談を聞いたり、古いニュース動画で視聴しただけですが、
もしあの時代にものごころつく年齢になっていたら…と、ゾッとせずにはいられません。
やわなひとまなど、生きていられたかどうか。
五木寛之さんの本を読むと、優しい自分になれます
ラジオで、五木寛之さんが、満州から引き揚げ当時の状況を語るのを聞きました。
2022年の9月に90歳を迎える五木寛之さんは、満州からの引き揚げのとき、まだ少年でした。
「自分や家族が助かるには、他人を押しのけ、死に追いやることもあるのが戦争…」と、
当時の自分の行動への自責の念で、つまりかけたノドから、絞り出すような声で、言葉すくなに語っていました。
少年ながら家族を守るために命がけでとった行為に、氏は苦しんでおられるのかもしれません。はるかにひどいことをしたって平気な人間も多い世の中ですが。
親鸞との出会いは、当時の行為の罪悪感に苦しむ五木寛之さんにとって、心の救済になったといいます。
ついつい、自分よりやけに幸せそうだったりすると、(なんだかな~)と、やっかみそうになったりしちゃうひとま。
まあ、そんな不完全人間ひとまだから、わが身を振り返って、他人の意地悪にも、目くじら立ててばかりいなくて済むのかも、ともおもいますが。
五木寛之さんの本を読むと、優しい自分になれて、ちょっと自分が好きになれます。
心がくじけそうになった日に
私の親鸞―孤独に寄りそうひと―
五木寛之
1932(昭和7)年、福岡県生れ。1947年に北朝鮮より引き揚げ。早稲田大学文学部ロシア文学科に学ぶ。1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、1967年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、1976年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。著書は『朱鷺の墓』『戒厳令の夜』『風の王国』『風に吹かれて』『親鸞』『大河の一滴』『他力』『孤独のすすめ』『マサカの時代』など多数。バック『かもめのジョナサン』など訳書もある。(新潮社のサイトより)
肉体の外見と心の年齢差
顔をはじめ肉体は着実に老けます。
でも、こころはそんなに老けないみたいです。
なんにだって個人差はあるけれど、ひとまの周りの人たちは、異口同音、
「自分がこんなに年寄りだってこと、ときどき忘れちゃうのよね」っていいます。
ひとまもそうです。
70代になってわかったのは、顔をはじめとする肉体は、たゆみなく年齢相応に老けていくけど、
(なんか、こころはあまり老けないなあ)
っていうこと。
なので、読書で若い登場人物になりきって余韻がさめないまま、ふと鏡に写った自分が目に入ると、
四六のガマじゃないけれど、脂汗が出る気分になったりします。
これは、ニュースのインタビューで、ひとまと同年代の男女が、異口同音、似た答えだったので、
ひとまだけの特殊な感じ方じゃないらしいんです。
まあ、鏡さえ見なければ、若いころの自分になりきれるっていうのも、麻薬みたいに、覚醒後がちょっとせつないけど。(ちなみに、麻薬に手を出したことはありませんが)
「メモリー・北区から」では…
長い人生、自分の利益のためにはためらわず他人を踏みつける多くの人間との遭遇もあったけれど、
ああ、世の中にはこんなにいい人もいるんだ!と思ったこともありました。
ざんねんながら、こういうひとは、やはり、とてもすくなかったけど。
もしかしたら、ひとまのほうに問題があったのかも…ともおもいますが。